ミュージックビデオの身体論④ カメラレス・ダンス
そもそも生身で踊る身体を必要としないし、カメラで撮られた実写映像であることを必須の条件としているわけではない。
ドイツのハンス・リヒターと共に「ユニヴァーサル言語」という視覚的・幾何学的言語の開発を目指していた。 「アニメーションは絵を動かす芸術ではなく、動きを描き出す芸術である」
「コマの上にあるものよりも、コマの間で起こることの方が、よっぽど重要だ」
「アニメーションとは、コマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術なのである」
だがその影響力の大きさとは裏腹に、いざモーション・グラフィックスについて論じようとすると、途端に雲を掴むような感覚に陥ってしまう。なぜなら映画であれMVであれ、何らかの映像作品を鑑賞したり論じたりする際に、モーション・グラフィックスの要素だけに注目することは困難であるか、あるいはほとんど意味を成さないからだ。 例えばモーション・グラフィックスの代表的な作家として、映画『めまい』(1958)や『サイコ』(1960)などのタイトル・シークエンスを手がけたソール・バス、『セブン』(1997)や『スパイダーマン』(2002)などのタイトル・シークエンスを手がけたカイル・クーパーが挙げられるが、彼らの手がけたモーション・グラフィックスでさえ多くの場合、他の作家が監督した映画作品などを構成する一部分であり、それ単体で自律した作品として成立しているわけではない。モーション・グラフィックスはそもそも、従来型の作家論や作品論、作家主義的な批評に馴染みにくいのだ。