ミュージックビデオの身体論④ カメラレス・ダンス
「映像のダンス」の源流
そもそも生身で踊る身体を必要としないし、カメラで撮られた実写映像であることを必須の条件としているわけではない。
ハンス・リヒター『Rhythmus 21』(1921年)
ヴァルター・ルットマン『Lichtspiel Opus I』(1921年)
ヴィギング・エッゲリング『対角線交響楽』(1924年)などの絶対映画、
オスカー・フィッシンガーによる視覚音楽(ビジュアル・ミュージック)
ヴィギング・エッゲリング
ドイツのハンス・リヒターと共に「ユニヴァーサル言語」という視覚的・幾何学的言語の開発を目指していた。
アニメーション研究者の権藤俊司は、オスカー・フィッシンガーの視覚音楽は「MTV的な音楽+映像の先駆的な作品群」であったと指摘している(『ユーロ・アニメーション——光と影のディープ・ファンタジー』フィルムアート社、2002年、p.17)。
マクラレンは、自らの考えるアニメーションの定義として
「アニメーションは絵を動かす芸術ではなく、動きを描き出す芸術である」
「コマの上にあるものよりも、コマの間で起こることの方が、よっぽど重要だ」
「アニメーションとは、コマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術なのである」
(「アニメーションの定義——ノーマン・マクラレンからの手紙(ジョルジュ・シフィアノスによるイントロダクションつき)」土井信彰訳、『表象07』所収、表象文化論学会編、2013年、p.68)。
アニメーションの定義 上の文献を読むまでは一旦ここを引用する
だがその影響力の大きさとは裏腹に、いざモーション・グラフィックスについて論じようとすると、途端に雲を掴むような感覚に陥ってしまう。なぜなら映画であれMVであれ、何らかの映像作品を鑑賞したり論じたりする際に、モーション・グラフィックスの要素だけに注目することは困難であるか、あるいはほとんど意味を成さないからだ。
例えばモーション・グラフィックスの代表的な作家として、映画『めまい』(1958)や『サイコ』(1960)などのタイトル・シークエンスを手がけたソール・バス、『セブン』(1997)や『スパイダーマン』(2002)などのタイトル・シークエンスを手がけたカイル・クーパーが挙げられるが、彼らの手がけたモーション・グラフィックスでさえ多くの場合、他の作家が監督した映画作品などを構成する一部分であり、それ単体で自律した作品として成立しているわけではない。モーション・グラフィックスはそもそも、従来型の作家論や作品論、作家主義的な批評に馴染みにくいのだ。
モーション・グラフィックスを対象とした本格的な研究を行うためには、作家論や作品論に固執するのではなく、映画研究者のチャールズ・マッサーが提唱する概念「スクリーン・プラクティス」やメディア考古学者エルキ・フータモの「スクリーン学」、2019年に日本の若手研究者が中心となって刊行した論集『スクリーン・スタディーズ: デジタル時代の映像/メディア経験』(光岡寿郎・大久保遼 編、東京大学出版会、2019 年)の知見を踏まえながら、スクリーンに映し出されるものだけではなく、スクリーンの使用法や置かれた環境、文脈なども考慮した総合的なアプローチが必要になるだろう。
Sinfonia Diagonale (1924) Viking Eggeling(1924)
Oskar Fischinger, Study no 8 (excerpt)(1931)
Blinkity Blank(1955)
Shugo Tokumaru (トクマルシューゴ) - Poker(2014)
Autechre - Gantz Graf(2002)
中ザワヒデキ 《出現絵画》 1995(1995)
MACINTOSH PLUS - リサフランク420 / 現代のコンピュー (Music Video)(2014)
サイコ (1960年)(1960)
Se7en (1995) title sequence(1997)
ハイスイノナサ / 地下鉄の動態 【Official Music Video】Haisuinonasa / Dynamics of the Subway(2012)
Prince - Sign O' The Times (Official Music Video)(1987)
WhiteFlame feat 初音ミク『千本桜』(2011)
まふまふ『命に嫌われている』(2018)
ミュージックビデオの身体論 佐々木友輔
https://note.com/sasakiyusuke/n/n7444020e569e?magazine_key=m982b7c907bed